まずは“エピソード”を読む

とはいえ、この人がたぶん日本人の中でトップクラスに入る
エピソードを持っているだろう。それは…長嶋茂雄さん。

まあ、お時間があるときに、読んでください。Wikiより抜粋。

エピソード


性格・行動に関するもの
長嶋は天真爛漫・おおらかと形容される一方、興味や関心の薄いものについては無頓着であるとされ、以下のような話がある[3]。


立教大学時代練習がきついという理由で合宿所を抜け出し、エースの杉浦忠と共に中日ドラゴンズの球団事務所へ行き入団テストを受けさせてくれと頼むものの球団職員に「卒業してから来なさい」と言われた。
立教大学での卒業試験で『I live in Tokyo.(私は東京に住んでいます)を過去形にしなさい』という問題を『I live in Edo.(私は江戸に住んでいます)』と解答して単位取得した(正解は『I lived in Tokyo.』)他にも「The」を「テヘ」と読んだという話や、授業で近くの席の学生の英和辞典を「君、便利な本を持っているね。それ何ていうの」と聞いたというものもある[4]。立教大学での卒業学部を聞かれ「野球部」と言い切った(「野球しかしてなかったからこれで正しいんじゃないかな」とも言っている)[5]。しかも自分専用に作成された入学試験・卒業試験の問題さえ正解できなかった(上記の英文和訳という説のほか、赤鉛筆の色は何色かという問題に青と答えたという説もある)。
宿帳の「職業」欄に「プロ野球選手」ではなくしばしば「長嶋茂雄」と記していた。
試合前の打撃練習ののち、そのまま帰宅しようとした事がある。自分のユニホームと間違え、背番号5の黒江のユニホームを着てグラウンドに出たこともある。片足に2本分(1足)のストッキングを履いた事があり、片足の分がないと探した。また、試合開始直前にストッキングを忘れた事に気付き、普通の靴下をマジックペンで黒く塗ったものを履いて試合に臨んだ事がある。試合後には自宅の場所を忘れ、田園調布の自宅のお手伝いさんに「あの僕、長嶋茂雄です。僕の家、どこでしたっけ?」と電話で尋ね、美容院に行っていた長嶋亜希子夫人が後楽園球場に迎えに来たことがある。1973年5月5日のこどもの日には長男・一茂を後楽園球場に同伴し、試合を観戦させた。帰宅後、夫人の指摘で一茂を球場に置き忘れたことに気がついた。一茂は審判室で保護されていた。
契約金を預金した銀行の名前を忘れ、大学時代の友人など方々に尋ねた挙句ようやく判明した。購入したばかりのBMWを運転中、「今日は随分エンジンブレーキが効くなぁ」と思いながらもそのまま走っていたら、車が火を吹き出した。サイドブレーキを引きっぱなしで走っていたためで、車は即廃車となった[6]。
ナインがメロドラマを見ているときに、突如テレビを消してしまい「この筋書きはですね、こうなってこうなるんですよ」と説明するも「それを分かってて見ているんです!」と顰蹙を買ってしまった。
他人の物であっても気に入ったバットは自分のものにしてしまう癖があった。長嶋が現役当時、巨人軍が「バットの個人持ち」を命じていたにも関わらず他人のバットを無断で使い、そのまま自分のものにしてしまう事もしばしばだったという。ただしバットが折れた場合は元の場所にきちんと置いていった。金田正一が当時珍しいものだった海外製のバットを購入したと聞き、「せめて素振りだけでも」とせがんだ事があった。その際、あまりに長嶋がもの欲しそうな様子を見せたため金田は「ええわ。わしは投手だからシゲが使ったらええ」と言い、一度も使っていない新品にもかかわらず譲ってしまったという。
「浪人」時代に、ある試合の解説で「うーん、この試合は一点でも多く点を取ったほうが勝ちでしょう」とコメントした。また、完成直前の東京ドームをテレビの収録で訪れて「この天井にボールをぶつける事は無理でしょう」と話したが、オープンした1988年にダラス・ウィリアムズ(阪急ブレーブス)が天井直撃のファウルを放っている。
少年野球教室では、選手たちの名前を呼ぶようにしているが、1982年にオーストラリアで行われた名球会の教室で、現地在住の選手らのチームに「君は赤井君だね」「あれ?君も赤井君。このチームは赤井君が多いねぇ」と背番号の部分を見て参加者全員が「赤井」という苗字だと思い込んでいたという。この当時、少年野球教室は赤井電機が協賛しており、選手らは「AKAI」のロゴの入ったユニフォームを着ていたためであった。
予約すらしてない会員でもないゴルフ場に「長嶋でーす」と名乗って入り、ゴルフ場職員は訝りながら中に入れてプレーさせた。
王貞治の回想によると、キャンプ時に宿舎の庭で夜まで練習している長嶋を見て、王も深夜まで素振りの練習をしていたが、いつまでも長嶋の気配が消えないので、そっと様子を見に行くと、長嶋はバットを振りながら、ヘルメットを落とす練習をしていたと言う。
一方、こうした「天真爛漫・無頓着」とは異なる側面もある。

イライラしたり、退屈になってくると、身近に有る物を蹴っては元の位置に戻す癖があった。例えば階段に置いてあった空のドラム缶をその癖で蹴ったところ、ドラム缶は階段を転げ落ちて行き王貞治に直撃。幸い王に怪我は無かったが長嶋は分が悪そうにドラム缶を元の位置の戻さずそそくさと退散した(一言「ごめん、ワンちゃん。わざとじゃないよ」と言ったとされている)。
現役時代のオフシーズンには伊豆などで「山ごもり」と称する自主トレーニングを行っていた。しかし、実のところは取材の来る初日と最終日だけ練習の振りを見せ、あとはもっぱら宿の部屋で好きな西洋名画の画集を眺めていることが多かったという。中にはその期間、実際には海外旅行に出かけていたという極端な年もあった[7]。
1961年10月に朝日新聞の「わたしが新聞記者なら」というインタビュー記事で「社会党の天下になったら野球、野球っていっておられるかどうか、わかりませんからね」と発言し、物議を醸した[8]。
若い頃は大の映画ファンで、立教大学4年の時に淀川長治が編集長の雑誌『映画の友』のインタビューを受けたことがある。そのインタビューでは「最近見た映画」として、エリア・カザン監督の『群集の中の一つの顔』、ロベール・ブレッソン監督の『抵抗』などをあげた。特に『抵抗』は心理描写に徹した異色作で「スポーツ選手がこんな映画を選ぶとは」と淀川を驚かせた。なお映画の好みについては「甘ったるい映画は、ちょうどアウトコース低めにくるボールと同じで、僕は苦手なんですよ。性分にあわない」と語っていた[9]。
将棋も趣味で、日本将棋連盟から球界最高位の五段の免状を授与されている。

人間関係
杉浦忠とはお互いが巨人、南海に入団してからも親しい間柄だった。また大学に入学して初めて杉浦を見たとき「メガネを掛けているから頭が良いんだなぁ」と思ったという。
また、野村克也と仲が悪いといわれるが実際はオフの選手同士の会合において、決して社交的とは言えず、またゴルフを一切やらない野村は孤立することが多かったが、そんな野村に長嶋はよく声をかけていたそうで、野村はそのことを素直に感謝している。一茂がヤクルトの選手になり、その後長嶋が巨人に復帰して両者が同リーグの監督になったことで、意識的に距離を置いたのが仲が悪いとみなされた一因と思われる。むしろ仲が悪いのはV9時代の同僚・森祇晶で、監督時代にオールスターで顔を合わせても全く口を聞かなかったほどである(しかし、雑誌の企画では対談している)。
1998年にかつてのライバル・村山実が亡くなった時には、「彼は(自分に対して)一球たりともアンフェアな球は投げなかった」と絶賛の言葉をたむけた。
1999年に亡くなったプロレスラーのジャイアント馬場は1955年から1960年まで巨人軍の選手だったため親友で、「馬場ちゃん」と呼んでいた。長嶋がジャイアンツに入団して初めてキャッチボールをした相手は馬場である。


現役選手として
新人時代の項で述べた「ホームラン取消事件」の他、1塁走者として、後続打者が外野フライにより帰塁する際、2塁を通過しながら、2塁を空過して1塁に帰るという三角ベース事件を、1960年、1964年、1968年の3回起こしている。その一方で、敵チームの三角ベース事件も3回発見している。また、息子・一茂が後にセ・リーグ通算3万号の本塁打を記録したため、「ホームラン取消事件」での踏み忘れが一茂の記録を生んだと揶揄されることもある。
現役時代に多くのタイトルを総なめにしてきたが、意外なことにサイクル安打は一度も達成できなかった。
全試合出場したシーズンは4シーズンのみであるが、首位打者を獲得したシーズンはすべて安打数でもリーグトップであり、「帳尻合わせ」のない首位打者であった。
野村克也は現役時代に打席に立つ選手が動揺するような話題をささやく事で集中力を乱す「ささやき戦術」を得意としていたが、それが通用しなかった数少ない選手の一人に長嶋を挙げている。長嶋を相手にささやきを行うと全く動揺の色すら見せず、それどころか「そう、よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と答え自ら話に乗ってきたという。長嶋のおおらかな性格を表しているエピソードである。野村は、著書『巨人軍論』のなかで、長嶋について『来た球を打てる天才』と称している。
野村のエピソードとは逆に、辻恭彦捕手が阪神時代、長嶋の打席の時に独り言をつぶやいていると、「おいダンプ(辻の愛称)、うるせえ!野球をやれ野球を!」と怒鳴られたうえ、放屁までされたと語っている。



監督時代
野村克也は長嶋の監督としての評価について、著書『巨人軍論』の中で「長嶋は監督としては失格。若手を育てられない」と記している。ただし、高校時代、肋膜炎にかかりプロでは体力面で懸念があった篠塚和典や、脱臼癖があってプロ入りを諦めていた松本匡史をタイトルホルダーにまで育てた例はある。他にも、中畑清西本聖、角三男、新浦寿夫、山倉和博らを第1次政権下で育て上げている。第1次政権時代の「地獄の伊東キャンプ」で成長した選手たちは、その後藤田元司監督の下で主力となり、日本一を勝ち取る。そのシーズン終了後、教え子たちは長嶋を極秘裏に中華料理店に招いて祝賀会を開き、店の裏で長嶋を胴上げしたという。また、チームが一度は放出した西本聖が1994年に再び巨人の入団テストを受けた際、当時の堀内投手コーチは獲得に反対したが、古巣へ復帰させ、自分が前政権で付けていた90番を譲った。そして、その年で引退した西本の引退試合多摩川グラウンドで行われた時、遅れて駆けつけ最後のバッターとして打席に立つなど情に厚い面を見せた。
また、第2次政権下でも松井秀喜仁志敏久清水隆行高橋由伸二岡智宏阿部慎之助などのドラフト上位選手を腐らせることなく主力選手に育てている。目をかけている選手は、たとえ調子が下がってきても我慢強く起用することがあり、上記の新浦などはその典型であった。新人で入ってきた阿部を、捕手の世代交代が急務であったとはいえ起用し続け、それが翌年の急成長につながっている。他にも、高橋由や二岡などがスランプで苦しんだ時期でも我慢して起用し続けた。


選手起用は大胆なものが多く、1977年、甲子園球場での阪神との第1回戦で、3対2と1点ビハインドの9回表、2死から土井正三が内野安打で出塁すると、俊足のルーキー松本匡史を代走に送り、すぐさま盗塁をさせ、次打者山本功児の中前適時打で同点に追いついている。盗塁失敗すればゲームセットの場面であるが、長嶋は、松本の足を信頼していた事とヒットが2本続く確率を考えれば、ヒット1本で追いつける場面(ランナー2塁)を作りたかった、という趣旨の事を述べている。1978年には、阪神戦で、5回に1点差に迫られなお無死1・2塁、かつ左打者の藤田平掛布雅之を迎えたところで先発投手の小林繁を一旦右翼に回し、左腕の角三男を登板させ、角が藤田、掛布を連続三振に切って取ると、小林を投手に戻し、小林は最後まで投げきって勝利している。(記録上は小林の救援勝利)ただし、後にもう一度小林が先発した際に、小俣進をワンポイント登板させ、同じ策を取ったが、再登板した小林が打たれて敗戦。1993年には延長戦で投手の岡田展和を代走に起用したり(試合後のインタビューでは、「ええ、オガタは足が速いですよ」と語った)、1997年にはやはり投手の宮本和知を代打に起用した。
1978年7月6日、札幌・円山球場で行われた巨人-広島戦で、3人も投手をつぎ込んだにもかかわらず1イニング10四球6押し出しで、計8失点し、1イニング最多四死球の日本ワースト記録が誕生した際に、あまりの酷さに「おい、誰か、野手で投げれるヤツはいないのか」とぼやいたという。
1996年、日本シリーズの終了後、長男・一茂に「お前は、来年の戦力構想に入っていない」と戦力外通告した。
部下(選手)達の名前を覚えられず、しばしば2人以上の名前を合成していた(高橋尚成高橋由伸との合成で「ヨシノリ」など)。また、名前の呼び違いもある。たとえば上原浩治を同期入団の「二岡」と呼んでいた(1999年に長嶋解任騒動が留任で落ち着いた際に上原が「これで『二岡』と呼ばれずに、自分の名前をちゃんと覚えてもらえます」と語っていた。)ほか、清水隆行を自分の現役時代の同僚であった「柳田」と呼んだことがあり、勝利監督インタビューでは広澤克実を「広岡」と言ったことがあった。1999年に兄の入来智が巨人に移籍してきたとき、生え抜きの弟、入来祐作に対して「お兄ちゃん」と呼んでいた。また入来祐作岡田展和をとり間違えることがあったようでブルペンに救援投手を岡田と連絡しておきながら審判に入来と告げることがあった(突然指名されたため入来は準備不足で救援失敗)。また、投手交代の際に交代投手を「アワグチ」と告げて、ブルペンで用意していた阿波野秀幸川口和久が顔を見合せて、「どっちだろ?」と言っていた。桑田真澄に対しては「くわた」ではなく「くわだ」と呼びかけていた。また、ロベルト・ペタジーニを「ペタちゃん」と呼んでいた。自軍の外野手出口雄大をなぜか「湯舟」(当時の阪神の投手)と呼んだ事もある。
カンピュータと揶揄されることがあるが、長嶋のカンは驚異的なものらしい。現役時代長嶋監督の下でプレーした村田真一(現:打撃コーチ)いわく、長嶋がボソッと「あ、打たれるな」とつぶやいた後、本当にピッチャーが打たれてしまう事がある。その他に長嶋が自らフォークを投手に投げさせろとサインを村田に出し、実際にマウンドの橋本清に投げさせると、橋本は立浪和義に見事なまでに狙い撃ちされ、特大ホームランを打たれてしまった。その直後、村田がベンチを見るとカンのいい長嶋は投げる前に打たれると思って、既にベンチ裏に下がって姿がなかったという。
試合後に選手が「皆で寿司を食べに行こう」と言うと、体が冷えると言う理由でダメだと言い、代わりに焼きバナナを食べろと言った。



その他
長嶋は自宅の他に数ヶ所の不動産を所有しているが、政治家の間で「世田谷に住むと出世する」というゲン担ぎがあったため、中曽根康弘が長嶋所有の世田谷区上北沢の家を借りて居住していた時期がある。内閣総理大臣に就任して総理大臣公邸に引っ越すまで居住していた。中曽根の総理大臣指名の日の朝には、この家の玄関に中曽根と長嶋が並んで立つ姿がニュースに映された。
独特なキャラクター性を持つ長嶋の真似をする人も数多く、中でも関根勤は今でも持ちネタにしている。また地元の水道局を退社してまで長嶋に似ているというだけでタレントに転向したプリティ長嶋は、その芸能活動のおかげで市川市に家を建て、2007年には市議会議員に当選した程である。

甲子園出場をかけた南関東予選では埼玉県の熊谷高校に敗れたが、息子の一茂も甲子園の埼玉県予選で熊谷高校に敗れている。

ドラマイエローカードでは父親役の福田正夫陣内孝則)が長島茂雄の大ファンで息子を一茂と名づけた設定である。